魔女っ風邪 1.スモッグと地下鉄

 

 スモッグはいつもの様に町を包み、雨上がりの空には、灰色の雲が西へとゆっくり流れていく。アパートを出たところにある自販機で缶コーヒーを買い、一応装備して来たコンビニ傘を、月極駐車場の柵網にカツンカツンとなぞらえていく。そうすると市バスが大きなエンジン音をあげて追い抜いて行ったりするが、今日の鬱屈した気分と来たら、全くあのスモッグと灰色の雲の色同様に淀んでいる。

 

地下鉄の中で、真っ黒い制服姿の神宮寺まりあは、軽く汗の匂いをさせながら、暗闇の中を滑走する列車の吊り革に掴まる。そうして前方から後方へ流れていく窓外の蛍光ランプの灯りを目で追いながら、スカートを引っ張って直したりする。となりのおじさんのポマードの匂いと、座席に座るおばさんの香水の匂いがミックスして、私の鼻孔をくすぐる。私はくしゃみが出そうで仕方がなかった。

 

「ねぇ、先生。先生でも本屋さんとかで立ち読みしますか?」

 

「えっ? それはするよ。だって中身を見てみないと、どんな本かわからないでしょ? 私は中身を確認しないと本は買いません」

 

 神宮寺さんは、小柄でおかっぱの髪型が似合う高校生だ。私はこの神宮寺さんの担任で、国語の教師をしている。でも最近は、雨が多くて、学校に行きたくないなあと思っている。

 

 「神宮寺さん。私と学校さぼろう」

 

 「はい?」

 

 神宮寺さんは、こころ良く承諾してくれた。一応学校には連絡を入れ、神宮寺さんも風邪で休みますと携帯で学校に連絡をした。今日は自由だ。

 

 雨の公園で屋根のある東屋のベンチに座り、フライドポテトを食べる。公園は雨で灰色に煙り、すべり台やブランコの向こうでは、紫のあじさいが咲いている。フライドポテトはちょっとしょっぱく、近くの自販機で爽健美茶を買って飲んだ。

 

 「神宮寺さん。カロリーメイト食べますか?」

 

 私と神宮寺さんは、カロリーメイトというブロック状の栄養食を食べる。私は、神宮寺さんと、ネコの居る路地裏を歩き、古い本屋さんで立ち読みしたり、どぶ臭い川の土手で、コンビニで買った大福を頬張ったりした。神宮寺さんは、ただ何となくついて来た感じだったので、特に気を遣う必要がなかった。

 

 駅前のプラモ屋で最新キットなどを見て廻ってから、神宮寺さんに行きたいところはないかと言ってみたら、路地裏の『ヴァーヴァラ・コネスチンの店』に行きたいと言い出した。

 

 

魔女っ風邪 2.ヴァーヴァラ・コネスチン

 

 

 その部屋は、かび臭い匂いがして、正面の明かり取りの小窓からは、灰色の雲が流れていた。狭い小部屋には椅子と机が置いてあるだけでなにもない。足を踏み出すと、床板はみしみしと音を立てる。私は机の花瓶の赤い花に触れると、花は枯れてしまい、ぽろぽろと崩れてしまった。

 

 「ここは学校と直結していて、先生のこころを反映しています。『ヴァーヴァラ・コネスチンの店』というのは、いまの自分に於けるこころの状態を知る為のバロメータみたいなものとお考え下さい」

 

 ヴァーヴァラ・コネスチンは老婆だが、しっかりとした物腰と風格からは、威厳ある人物に映る。何だか初めて来た場所ではないような気がして、私の気分は落ち着いていた。

 

 神宮寺さんは、顔色ひとつ変えないで、もくもくと出されたオレンジジュースを飲んでいる。そうすると小柄な神宮寺さんは、いつもの彼女として存在していて、それはあたりまえのようで、彼女を育成している細胞の組織そのものの価値を高めるものである。


 『地球の影』に太陽光が差し込むと、青い空と草原が広がり、丸い白いテーブルで、足を組みながら、カフェを楽しんでいた私は、神宮寺さんの朝日に照り映える紅潮した頬を見ていた。



 小川を流れる水は、どこまでも続く様に見えるが、川の水はやがて、『海』となって、地球上の自然となる。そのことは、とても深い意味があり、普遍な約束事である。朝日の草原で、風に揺れる桔梗の花が咲く様子と、神宮寺さんの髪が風でふわりと広がる瞬間は、まるで美しい風景画の様だった。

 

 空に雲が浮かび、ゆっくり流れる。草原に寝っ転がって、あくびをする。上空をカラスがカーと鳴きながら飛んでいく。いまは良いが、何となく不安なのは、今日学校さぼっても、明日また行かねばならないむなしさから来るのだろうか? それと生徒や他の先生たちへの罪悪感。私は、草原の空気を肺に目いっぱい吸い込んだ。

 

 「学校さぼっても良い事ないよ。学校に行こう先生」

 

 「そうだね。私が間違っていたよ」

 

 星のさいごの日が来るのならば、この世界は崩壊してしまうのだろうが、それは、本当の『解放』として私の心に映る。ある日、私は教頭に辞職願を出し、学校を離れた。風のうわさで、神宮寺まりあも退学したと聞いた。制服を脱いだ彼女は、工場に就職したらしい。私は、コンビニで働くことにした。

 

 「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちでしょうか?」

 

 髪を腰のところまでストレートに伸ばした20代くらいの女の子は、中華まんとからあげクンのチーズ味を注文した。私は手を消毒してから、トングで中華まんを掴んだ。

 

 「お待たせしました。あれ?」

 

 「あっ、祭先生」

 

 良く見たら神宮寺さんだった。神宮寺さんは相変わらず小柄で、黒縁眼鏡をかけていた。それからちょくちょく彼女はお店に顔を出すようになり、それがきっかけでわたしたちは付き合うようになり、やがて結婚をした。


魔女っ風邪 3.祭まりあ

 

 

 フェリーの風呂に入り、狭いけど湯舟に浸かる。湯舟に陰毛がプカプカ浮いていて、手のひらでお湯事すくい、洗面に流す。ゴンゴンゴンと船のエンジンの音がする中で、私の身体の垢が船の排水タンクに流れていくと思うとおもしろい。すぐペチャっと体に張り付くビニールカーテンをあけると、ドアの向こうでは、下着姿のままでドライヤーをかけるまりあが片手で尻を掻いている。

 

 「先生、ビール飲む?」

 

 「いや、今日は辞めとこうかな」

 

 タオルであたまを拭きながら椅子に座ると、船の小窓から見える海の景色は日が暮れて、地上の山やすれ違う船などの灯りが、ゆっくり流れていく。空には灰色の雲が朱色のグラデーションに彩られ、海の風光明媚さを携えている。

 

 「先生、もうすぐ瀬戸大橋の下を通るんだって。写真撮ったらどう?」

 

 「うん」

 

 私は、ガラスのコップに冷たいお茶を注ぎながら椅子に腰かけていた。フェリーの旅は意外と快適で、私はすっかり良い気持ちになっていた。まりあは眠いからと言って、早々に寝てしまい、布団から生足がはみ出て、ナイトスタンドの灯りに太股が照り映えていた。


 船で朝食を済ませた私たちは、カーゴ内のデッキに止めてある車に荷物を積み込み、船のハッチが開くのを待っていた。ナビを福岡市に設定し、今後はその地方で暮らすことになっていた。荷物は11時頃には届く筈である。

 

 「先生、私、先生がいれば大丈夫だよ」

 

 「そっか」

 

 雨足が強くなり、ワイパーがカッシュカッシュと水を切る。九州道は雨に煙り、減速せねばならなかった。空にはいなずまが走り、ゴゴゴとかみなりの音がした。都市高速に入る頃、雨足は遠ざかり、雲海の山が見えて来て、晴れ間さえ見て取れた。

 

 「先生が病気だと知ってから、私のこころは変わりました。先生に付いて守ってあげることで、私の生きる意味が見いだせるような気がします。だから、お義父さんの介護で九州に来て、ともだちもいないけれど、大丈夫だって思えます」

 

 私は、サービスエリアで買ったコーヒーを飲みながら、まりあの言葉をうれしく思った。信号待ちをしている時、歩道を制服着た女の子が、髪も服もびしょ濡れで歩いて行く。それを目で追っていた私は、信号が赤から青に変わっているのに気が付かず。慌てて車を発進させた。

 

 「私は、きみと『ヴァーヴァラ・コネスチン』の店で自分のこころを見て、思ったよ。このままでは、死ぬことになるのではないかとね。あの草原には、身体に溜まった毒素を取ってくれる作用があったと思うんだ。そこに横になってるだけで、気持ちが楽になる。『こころの風邪』は、『神宮寺まりあ』という魔女が取ってくれたんだよ」

 

 まりあはくすくす笑って、

 

 「私は、魔女ですか。先生なんて魔王じゃないですか。教え子と結婚してるんですよ」

 

 「ハッハッハッハ! 魔王かもね」

 

 引っ越しは無事終わり、荷物も片付いた頃、私の『魔女』は、裸になり、風呂に入る。私の机の椅子にかけてあるブラジャーとパンツが窓から入るそよ風に揺れている。インターネットをしながら、私は、(答えなんかいらないのかもなあ……)と、窓から見える山を見るのだった。

                                               ~おしまい~



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