サチコ 1.海辺とおじさん

 

きまぐれに昨夜の海に出かけてみた。

そこに、夢は捨てたつもりだった。けれど朝の海辺に昇る陽光に手をかざして見ていたら、そんなことはない。もう一度やり直せる。そんな気持ちにココロは変化していく。

 サチコはそのまま朝陽に照り映える砂浜を裸足になって歩いた。

 

「あ~きの夕日に照山もみじ~」

 

 サンダルを履きなおして旅館に戻ろうと防波堤の路地を歩いていると、麦わらを被ったランニングとステテコ姿のおじさんが防波堤に胡坐をかいて座り、ぷかぷか煙草を吸っていた。

 

「おはようございます」

 

 サチコが挨拶すると、麦わらのおじさんは、サチコの方を見もしないで煙草を吸い続けている。

 

(変なおじさん……)

 

 サチコがスカートを直しながら、麦わらのおじさんの後ろを取り過ぎようとすると、

 

「待ちな、お嬢さん」

 

「はい」

 

 麦わらのおじさんは、煙草の吸殻を海へ投げ捨てるとサチコの方を振り向いた。おじさんはビールの缶を手にしていた。

 

 (酔っぱらってるのか、おじさん)

 

 間違った言葉を発してはいけないと、麦わらのおじさんの言葉をサチコは待った。

「お嬢さん、スワヒリ語って知ってるか?」

 

「……はぁ?」

 

サチコは狼狽した。

 

(何処の言葉だ。それは……)

 

サチコは舌で唇を舐めて、何処かの国の言語の話を始めたおっさんと対峙した格好になった。

 

「……あー、もちろん知ってますわ」

 

「ほう。俺はそういう素直な女は好きだ」

 

サチコは海辺の草むらで麦わらのおじさんに抱かれた。

 

「どうだい」

 

「良かったです」

 

 背中の肌が草に絡んでチクチクしてこそばゆかったがサチコは満足していた。海辺にきらきらと朝日が照り映え、潮騒の音と蝉の鳴き声が絡まり、夏の朝を演出していた。

 

 旅館への裏通りの路地を何となく歩いていると、古い井戸が有り、いまもその井戸が現役である証拠に、おばさんが野菜を洗っていた。

 

「あら? お客さん」

 

「あー、旅館の女将さん。おはようございます」

 

 女将さんは、丁寧に野菜を井戸の水で洗って、水を切っている。白菜は瑞々しく美味しそうだった。

 

「おいしそうできれいですね」

 

「食べてみる? 裏の畑で採って来たばかりで新鮮だよ」

 

「はい。じゃあ頂きます」

 

白菜をかじるとシャキシャキしていて、甘みがあって美味しかった。女将さんが、井戸のポンプを押して、水がたらいにジャーと出てくる。冷たい水を飲んで見たくて、手ですくい飲んでみた。とても美味しかった。サチコは、女将さんに礼を言うと、旅館に戻った。部屋に戻ると、もう朝ごはんが用意されており、座布団に座ると、ぱくぱく食べ始めた。

 

 

サチコ 2.夏の終わり

 

 サチコは神社の境内って不思議だなあと思う。赤い鳥居の中って、何だかミステリアスだし、ちょっと近寄り難い雰囲気だけど、お参りしてみたい気分にはなる。その神社は通り抜けて、森の道を進むと、いつものコンビニがあったり、電車が走っていたりする。その日常感は、既に秋の気配に包まれていて、ところどころで、秋の虫が鳴いていたりする。

 

 「私、夏の肌が焼けて、ペリペリ皮を剥くの好きだわ。何だか脱皮して、新しくなるみたいで、おもしろいと思うの」

 サチコは、ユカの口の周りがアイスでベトベトになっていくのを見やりながら、肩に手をやり、ペリペリ皮を剥いて、それが手の平から風でヒューと飛んで行くのを見届けてから、ユカは、ジーンズの下のパンツを引っ張って直した。

 

 「昨日、ユニクロでパンツ買ったんだあ。ほらかわいいでしょ?」

 

 「あら、ほんとう。カエルの絵が描いてあるんだね」

 

ユカがジーンズを引っ張って、カエルのパンツを見せるので、上から覗き込んだ。横断歩道を渡ろうとしていたおばさんがなんだあ? という顔をしていた。サチコは何のパンツを履いていたかなあ? とぼんやり歩いていると、クマのパンツを履いていたのを思い出した。

 

朝の通勤電車に乗って、夏の海と、真夏の雨を思い出す。海辺の麦わらのおじさんのイカ臭い匂いと、草の匂いは、吊革の何となくベタベタした感じと相まって、手に汗を掻く。そうして、駅の売店で買ったジョアをストローを使って、ちゅうちゅう吸っていると、裸足で覚えたあの海辺の砂を踏む感覚が、どうしても麦わらのおじさんと直結していて、足の指の間も汗をかいて、靴下に染み込んでいく感覚が、もうそれは、『秋』なんだなあとサチコは思う。

 

「あっはっはっは! あんたおもしろいね」

 

ユカは、麦わらのおじさんの話を聞いて爆笑していた。夏の思い出は、秋になると切なく思える。いまでもサチコの脳裏に、海に煙草を投げ捨てる麦わらのおじさんの背中が、きらきらひかる海を背景に男らしく映り、ユカもわからないでもないよと笑うのだった。

 

 

 

サチコ 3.町の風景

 

 コーラを買おうと自動販売機の前で小銭を入れていると、夜明けの空が朱色に染まり、澄んだ大気の空気は、サチコのこころを清々しいものにする。マンションの前の車道をタイヤの音をさせて、車やトラックが走って行く。信号が明滅する横断歩道の向こうには、古いちいさな公園があり、夏草が生い茂る中で、錆び付いたブランコが風に揺れている。その背景には、朝の町の景観が広がる。

 

秋の虫が、リーリーと鳴いているのを邪魔しないように、錆びたブランコに尻を乗せ、朝の町を眺めながら、ごくごくと炭酸のパンチの効いたコーラを飲む。手に付いたコーラの缶の水滴を短パンで拭く。そうすると水滴がパンツまで染みて、ちょっと冷たかった。

 

曲がりくねった道を登り切った先に、枯れた柿の木があって、その裏に広がる墓場には、サチコの同僚が眠る墓があり、サチコはそこでひとり手を合わせていた。事故で死んだサチコの友人のコウタに、サチコが密かに思いを寄せていたのを、死んだコウタは知っていたのだろうか?

 

 「どうして人って簡単に死んだりするんだろうね、コウタ。君に1000円貸していたのを覚えてる? お金返さないで逝っちゃうなんてズルいわよ?」

 

台風が来ている為か天候が変わりやすい。鈍色の空と暴風雨で、喪服姿のサチコはあっという間にびしょ濡れになった。

 

 雨宿りをしようと煙草屋の跡の古い軒下で、ハンカチで髪を拭いてると、歳取ったお婆さんが、サチコに飴をくれた。カンロ飴の味はともかく、お礼にとバックから、おまんじゅうを取り出すと、お婆さんの姿はもう何処にもなかった。

 

 マンションに帰り、濡れた喪服を脱いで、シャワーを浴びる。髪をタオルドライして、机の椅子に下着のまま座る。冷蔵庫からチーズを出していたのでかじる。その後も激しい暴風雨で、窓がヒューヒュー鳴っていた。

 

 「今日はカバのパンツだ」

 

 「急に開けないでよ、ユカ」

 

 ユカは、いいちこと、チーカマを持って、ニヤニヤ笑って靴を脱いだ。

 

 どうしても辛くなった時には、またあの海を見に行けば良い。またあの麦わらのおじさんに会う事もあるかも知れないし、あの海で感じた『またやり直せる』という気持ちは、サチコが前を向いて歩いているという証拠だと思う。

 

 

 ―「おじさん、おじさんの息って、煙草とお酒臭いですね」

 海と草の匂いと青い空がきれいだった。

 

 

~おしまい~

 

サチコ




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