6月の金曜日 第1

 その夜まで大雨が降り続き、僕は窓を叩きつける滝のような大粒の雨を見ていた。あこは、ここ数日帰らなかった。僕は、窓を離れるとシャワーを浴びる事にした。あこが何処に行こうが、それはもう考えるのをやめる事にした。浴室から出ると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。窓の外で雷鳴が轟く。雨はさらにつよくなっていった。タオルで頭を拭きながら、デスクチェアに腰かけると、携帯の着信音が鳴った。少しためらったが、携帯を手にした。

 「もしもし」

 雨は嵐となってゴウゴウと音をたてた。電話の相手はわかっていた。

 (……土橋です。由宇、私……)

 僕は、あこの言いたい事がわかった。

 (私、……まだ、あのひとの事が忘れられないんです。これから、あの人の所へ行きます。本当にごめんなさい。じゃあ……さよなら)

 あこは、それだけ言うと電話を切った。僕は、しばらく携帯を耳につけたまま茫然と立ち尽くした。携帯をベッドの上に放ると、乱暴にもテーブルを拳で叩きつけた。テーブルの上の花瓶が床に落ちて割れた。花瓶の破片と、赤い花びらが床に散らばり、床板にこぼれた水がゆっくり広がっていく。

 僕は荒々しく冷蔵庫から缶ビールを取り出し飲んだ。ビールの味なんかわからなかった。

 ベッドに座ると、ビールの缶を壁に投げつけ、頭を搔きむしった。ガラン……と、床に転がった空き缶の様は、どこかつまらない僕自身の行動を思わせた。こうなる事は始めからわかっていた。彼女の男ぐせの悪さや、僕のつめたい性格。いずれにしろ彼女が、いつかここを出て行くのはわかっていた。



6月の金曜日 第2

 6日間降り続いた雨もあがり、その日の朝に来客があった。

 ドアを開けると、年齢は40代半ばくらいの女性が立っていた。

 女性は丁寧に頭を下げた。

 見た目は、普通の主婦といったところか? 品の良い服を着た女性だ。

 「あの、突然お邪魔してすみません。こちら古間由宇さんのお宅では?」

 鼻のかかった声をした女性だ。

 「そうですが。……どちらさまですか?」

 女性は、ためらう様子も見せず、

 「私は、更科涼子といいます。実はうちの主人と、その……土橋あこさん、ご存じですよね?」

 「はぁ……」

 どう答えたものか戸惑ったが、話は何となく呑み込めた。この女性は、あこの不倫相手の奥さんらしい。僕は、あわてて言った。

 「あの、こんなところで何ですから、この近くに良い喫茶店があるので、よろしければそこで話をしませんか?」

 いつも行くような店は避けた。込み入った話をするのに向いていそうな店を選んだ。店の中には、テーブル席でタバコを吸う老人が眼鏡を大事そうに拭いているのと、カウンターの向こうで、赤い派手なエプロンをしたおばさんが皿を洗っているだけだ。

 (ちょっと、無難過ぎたかな……)

 更科涼子は、「静かなお店ですね」そう店を褒めると、テーブル席に座った。

 僕も、遠慮がちに座わると、ゴホンと咳払いをした。

 更科涼子は、ひと言も、あこの事をわるく言わなかった。ただ、ひとり娘の話と、僕の話をしたがった。

 時には笑顔すら見せるこの女性は、特に旦那の事を責める事もしなかった。何故、僕や、あこの事を知っているのかは明かさなかったが、たぶん興信所にでも頼んだのだろう。それはそうだ。どこの誰とも知らない若い女と自分の夫が……。そう考えると腹が立つのは当然だ。僕だって、同じ気持ちだ。一通り話がおわったとみて、更科婦人は、伝票を持つと、席を立ってこう言った。  

 「あなた、あまり素直に人と付き合えないタイプじゃなくて? でも、あなたなら土橋さんをきっと探し出す事ができる」

 そう言うと、会計を済ませ、更科涼子はドアを開けて出て行った。

 僕は、何だかすべて見すかされている子供になった気持ちになった。

 向かいのテーブル席の老人は、相変わらずむっつりと新聞を読んでいる。店のママさんに会釈すると店を出た。また雲行きが怪しくなり、小雨が降り出した。僕は、濡れるのもかまわずに歩道を歩いた。

そして僕は、あこを探す事に決めた。



6月の金曜日 第3

 あこの行方はなかなかわからなかった。あこの友達2、3人に当たってみたが、男の話どころか、僕の事さえ知らなかったみたいで、ということは、交友関係はあまり広くないみたいだ。

 駅前のマックでハンバーガーを買って、ほおばりながら歩いた。

 靴紐が取れかけていたので、ロータリーの噴水が見えるベンチに腰かけて、靴紐を結び直した。顔をあげた瞬間、噴水が噴出して水のモニュメントが形成された。鳩を追いかけていた小さな子供が転んで泣き出した。母親が慌てて駆け寄って助け起こす。鳩は驚いて飛んで行ってしまった……。

 その日も仕事をさぼって、流音(るね)と過ごした。流音は、高校生で、更科の娘であり、父親の『不倫事件』から、登校拒否になり、学校に行くふりをして、うちに入り浸っている。

 コンビニで缶ビールと煙草を買った。煙草はだいぶ前に辞めていたが、机の引き出しの奥にしまってあった百円ライターで、火を点けてみた。軽く煙を吸い込み、肺に入れると、鼻から煙をはいた。灰皿は無いので、空き缶に灰を落とす。青い煙が天井の部分まであがるのを見送ると、半分くらい吸った後で、飲みかけのビールの缶の穴にねじ込み、残った煙草はライターと煙草の箱ごとゴミ箱にほかった。

 「ね、しょっか」

 「由宇クンと……?」

 「冗談。犯罪者になりたくないもの」

 「もう、じゅうぶん犯罪だって」

 僕は冷蔵庫から牛乳パックを取り出して飲んだ。口の端から少し垂れたので、手の甲で拭った。制服のままで牛乳パックに口をつけて喉を鳴らして飲む流音は、言葉を知らない子供の様に無口なところがあり、ほおっておいても、カバンからゲーム機を取り出して適当に遊んだりして過ごしている。全くお互い喋らない日もあれば、一緒にコンビニへ出かけたりもした。

 ある日、流音が、もううちに帰るのは面倒くさいから、泊めてくれと言いだした。

 「そんな事したら捕まっちゃうよ」

 「もうわるい事してるじゃない」

 冗談、と笑う流音には、邪気というものも感じなかった。

 月のない夜、彼女は友達の家に泊まるとか何とか親に言って、僕の部屋に泊まった。

 そして一緒にDVDを見たり、カードゲームをして夜を過ごした。夕飯は、コンビニで買って来たおにぎりやカップラーメンだけで済ませた。お風呂に一緒に入る提案は、さすがに断った。ちょっと後悔した。

 パジャマに身を包んで清潔そうなショートの髪の流音が寝がえりをうつと、布団と服の擦れる音だけが部屋に充満して、そのうち遠くを走る救急車のサイレンの音と混ざり、それがベッドに寝ている人物と重なり、何だか心配になって、ちゃんと息をしているのか、彼女の口と鼻の辺りに手を近づけて、呼吸している事にホッとしたりする自分を、おでこに手を当てて笑ってしまう。

 何もしない自分は、律義なのかバカなのか、つまらない理性と意地は、夜明けになっても葛藤していた。

 彼女とは、キスする関係にまでは発展したが、それ以上の行為には至らなかった。

 そして月日は流れた。



6月の金曜日 第4

 土橋あこと偶然会ったのは、それから2年後だった。

 その居酒屋の暖簾をくぐると、彼女はひとりで焼き鳥を肴に冷酒をもう一杯注文したところだ。もうけっこう空けていそうないきおいなのに、あこは平然とグラスに口をつけながら、メンソールを吸っていた。あこは、肉付きの良い身体から、痩せた華著な体つきになり、ロングの髪もショートにしていた。

 「あら? 由宇じゃない。久しぶりねぇ。こっちへ来なさいよ」

 断る理由もなかったので、あこのとなりに座り、マスターにビールと奴を頼んだ。店内には小柳ルミ子かかっていた。枝豆を摘まみながら、昔の話などをしながら酒を酌み交わした。砂肝やつくねを食べながら酒はすすんだ。

 「へぇ……。由宇ってわりといける口なんだ」

 「いまはひとり?」

 あこは、飲みかけた梅酒の手を止めて、えっ?という顔をした。

 「いやだ、聞かないで。私だってひとりになりたい時もあるわよ。でもこうやって由宇とお酒飲むのもたのしいわね。あなたはどうなの? 付き合ってる人がいるんでしょ?」

 「……」

 フーンという顔をして、あこは僕の顔を覗き込んだ。

 「あっはっはっは! 顔に書いてあるわよ。相変わらずねぇ」

 それから、ホテルに行って、裸になったが、酒も入っていたので、僕のモノは役に立たなかった。あこは笑うどころか、僕自身をたくみな舌で絡む様にすると、僕はすぐ果ててしまった。

 彼女と別れたあと、タクシーを拾おうか迷ったが、そのまま歩いて帰る事にした。酒が抜ければ、すべて忘れ去ってしまう事だろう。

 流音は、この春で19になる。流音とは、彼女が高校を卒業してからも関係は続いていた。

 だが、いまだ身体の関係はなかった。それだけは、流音は拒んだ。

 背は低く、長い黒髪を背中で束ねた姿見からは、背伸びした子供の妖しさを秘めていた。その割には童顔で、ちょっと口が重いところが見てとれた。

 あこの不倫相手は、流音の父親で、その父親がガンで死んでから久しい。

 更科徹については、ごく普通のサラリーマンだったと聞いている。

 たとえ、あこが更科徹の余命幾ばくかを知っていて付き合っていたのだとしても、それはそれ、僕は更科徹が残した娘のほうに興味を覚えた。

 彼女を抱きたい衝動に駆られるが、いまは理性に忠実になっていたほうが良さそうだ。

 こういうつまらないところが、あこはイヤだったのに違いない。



6月の金曜日 第5

 海岸には、強い春風が吹いていた。

 カモメが風にあおられながら、飛んでいく。

 黒いパーカーとジーンズを着た更科流音は、乱れた髪を耳にかけながら、僕に微笑んだ。

 「由宇クンが、あこさんにしなかった事を、あたしもしないだけだよ」

 流音は、それだけ言うと、僕の頬にキスをした。

 「なんだよ、それ。あこは関係ないでしょ」

 スニーカーを脱いで、彼女は砂浜の上に足跡をつけながら歩いて行く。

 僕は、ジーンズのポケットに手を突っ込みながら、流音の後についていった。

 ビュウビュウと突風が吹いた。海は荒れていた。荒波に照り映える太陽光がきれいだ。

 流音は、風の中に消えてしまいそうな声で、僕に向かって叫んでいた。

 「私は、由宇クンの事を、もっと知りたい!」

 コンビニのビニール袋が風で飛ばされてきて、僕の足に引っ掛かってから、また海の方へ飛ばされていった。

 流音の鼻にかかった声は、耳の裏側までもくすぐった。だけど、次の言葉は、何故かためらってしまった。

 その夜も、あこに呼び出された。

 今度は断るつもりだった。いまは流音の方が大事だった。

 だけど、僕はあこを抱いてしまった。

 僕は、流音への罪悪感で、頭が変になりそうだった。

 僕は、アパートに帰ると、ベッドに横になり、流音の携帯ナンバーを押した。流音は電話に出なかった。不安な気持ちが押し寄せた。しばらくすると、携帯に着信があった。流音からだった。

 (由宇クン? ごめん。友達と話してたので、電話に出れなくて)

 僕は、一息つくと、

 「どこかの男と一緒なのかと思った」

 思わず言ってしまった言葉だが、それは自分の事だと思った。自分こそ他の女と会っていたのに、虫のいい話だ。流音は、それに対して怒るという事はしなかった。ただ言葉に失望を感じた。

 (これから由宇クンのところへ行っても良い?)

 「もちろんいいよ。待ってるよ」

 ちょっと間があって、(うん、じゃあ行きます)と、満足そうな返事があって、流音は、電話を切った。

 僕は、あこの臭いが付いていそうな服を洗濯機に放り込み、急いで洗濯機を回した。洗剤はいつも以上に入れた。そして風呂に入り、シャワーで体の隅々まで洗い流した。湯で自分のわるい心も洗い流せないものかとも思った。そんな事をしていると、ひどく切ない気持になった。

 カップラーメンの湯をやかんにかけて、ガスレンジのスイッチをひねると、ボッと青い炎が着いた。カップラーメンは3分で出来たが、アルミのフタが湯気でめくれ上がっても、箸はつけなかった。ふやけたラーメンから冷めた湯気が立ち上る。そのまま流しの三角コーナーにラーメンをほかると、コートを着て部屋を出た。

 外灯の下の自販機でコーラを買って飲んでいると、流音がアパートの階段を上って行くのが見えた。僕はとっさに電柱の陰に隠れた。流音は部屋の扉をたたいたが、僕が出て来ないので、階段を下りて行った。それを尻目にコーラを一気に飲み干したら、でかいゲップが出た。



6月の金曜日 第6

 「バカヤロー!! 歯ァ食いしばれ!!」

 宮田のパンチをくらうと、僕はゴミ置き場に吹っ飛んで、ゴミ箱と一緒に転がった。ゴミ箱のふたがカラカラと転がる。

 「お前はただのクズだ。情けない奴!」

 僕は切れた口の血のまじったツバを吐いた。宮田の拳でちょっと目が覚めた。宮田に打ち明けたのは失敗だったかなと思ったが、宮田は心の底から心配しているようだ。ゴミの中でひっくり返った僕にでかい手を伸ばすとグッと引っ張り起こして、僕のズボンをパンパンはたいた。

 「ま、男同士にゃ、こいつが一番効くと思ってな。あとは自分で良く考えな。俺が思うには、その流音って子は良い子だぞ。それにお前のことを好いてる。だがその先に進まないのは、彼女なりの何かの境界線なのかも知れんな。俺の助言はそんなところだ」

 アパートへの帰り道、あこの言葉を思い返す。

 (あの子は、本当にあなたが好きなのよ。あの子には、あなたのこころが閉ざされているのがわかるの。そしてあの子のこころも固く閉ざされている。お互いそれに気づいているんだけど、似た者同士だから、どうしたら良いのかわからないのね。それにあの子、とっくに私とあなたの関係に気づいてるわ。バカね、由宇。 私との関係は忘れて、あの子のところへ帰るといいわ。でも、それってある意味犯罪よね? もうふたりだけで会うのはやめましょ? さよなら)

 そう言って、笑顔であこは去って行った。

 流音は、まだアパートに帰っていなかった。流音は親に黙って僕と同棲していた。進学はしないで工場で働いている。『ミン』のトイレのそうじをして、エサと水を取り替えてあげていると、チャイムの音がした。

 「流音、開いてるよ」

 ドアは開けられる気配がなく、宅配か何かが来たのかと思い玄関へ出た。

 ドアを開けてみると、年配の女性が立っていた。僕の心臓は激しく波打った。

 「私の顔は覚えているかしら?」

 「更科……涼子さん……?」

 一度会った事のある顔は、しっかり覚えていた。

 「娘の事で話があります」

 「……」

 僕は、覚悟を決めるしかなかった。



 その夜もやはり月のない空だった。ひとり煙草を吸い、酒を飲んだ。つらい気持ちも、酒を飲めば忘れられると思ったけど、それは勘違いで、不安と焦燥感に駆られたり、交錯する思いで時折、半狂乱になってモノにあたる。病院でもらったクスリは、もう飲みたくなかった。すっかり身体を壊した僕は、病院に入退院を繰り返した。

 

6月の金曜日 最終話


 先生から退院の許可を貰って、荷物をまとめる。窓辺には雪が積もっていて、外はうって変わって白一色の街と化していた。去年のクリスマスは、病院で過ごしたけど、今年は、自分の家で過ごせそうだ。会計を済ませ、僕は久しぶりに帰る我が家に、こころ弾ませた。雪は止んでいて、空は、晴れかけている。まだ早い時間なので、影になっているところは、かなり雪が積もり、昨晩の降雪量のすさまじさを窺い知れる。晴れ渡る空に冬の壮大な雲が広がる。僕は息とし生けるものに感謝した。

 うちのアパートは、古いけど、居心地が良いのは確かだ。久しぶりに見る我が家の階段を上り、うちのドアの前に立つ。ポストには、新聞やら広告のチラシやらが無造作に突っ込んであり、一気にそれらをポストから引き抜くと、鍵を開けて中に入った。うちの中は、ひっくり返したような荒れようだった。僕は、靴を脱ぎ、部屋にあがると、バックを床に置いて、デスクチェアに座った。ふぅ、と息を吐くと、コンビニで買った缶コーヒーのプルトップを開けて、それをちびちび飲んだ。

 それから掃除に取り掛かった。床に散乱しているペットボトルや、コンビニで買って食べた弁当の空箱や、空き缶を、燃えるゴミと資源ゴミに分けて、新聞はきれいに畳んでビニール紐でしばる。それが終わると掃除機をざっとかけて、水に濡らして良く絞った雑巾で床を拭きあげ、汚れたベッドのシーツや枕カバーを外し、洗濯機に入れた。布団を干した後、少し休んで、キッチンの汚れものに取り掛かった。トイレ掃除が終わると、もう夜になっていた。

 近くのガソリンスタンドで灯油を買い、18リットル缶を運んで、ファンヒーターに灯油を入れる。ボッとファンヒーターを点けて、コンビニで買ったからあげ弁当とお茶で夕食を済ます。しゅうまいが2個入っていて旨かった。

 クリスマスが近づいたある朝、ちょっと古い昔ながらの喫茶店でモーニングを楽しんでいた。店内は煙草をふかしているおじさんばかりだけど、店員のおねぇさんは若い。店員のお尻を眺めながらトーストにかぶり付く。トーストは痺れるほど旨い。店内にかかる有線も心地い良い。ぼんやり週刊誌のエロ記事を読んでいると、香水の香りとともに女がカウンターに座るのを見た。僕はさっそく女の値踏みをした。女は僕の視線に気づいて振り向いた。

 「……あこ!?」

 「えッ?」

 土橋あこは、煙草に火を点けようとした手を止めて、目を大きく見開き両手を口に当てて息を吸い込むと、「由宇!?」と言った。あこの髪はパーマをかけて茶髪に染め上げ、黒い細身のスパッツを穿いてスレンダーなボディラインをしているが、ちょっとその辺のおばさんぽくなっている。あこは煙草をバックに放り込んで、店の女の子に断ってから、僕の座ってるテーブルに移動して来た。

 「ほんとに由宇だ」

 「げ、元気だった? あこ」

 「今日はパチンコにも勝ったしついてるわ」

 あこは、煙草を次から次へ点けたり消したりしながら、僕との話に夢中になった。僕の病気については触れなかった。

 「由宇、時間あるんでしょ? 付き合って欲しいところがあるんだ」

 「どこに? まぁ、別に良いけど」

 僕たちはレジで勘定を済ますと、店を出た。

 外は寒くて、僕はコートのポケットに手を突っ込み、マフラーを巻きなおして、あこにつづいた。

 あこは、上機嫌で鼻歌を歌いながら、手を後ろに組んだり、伸びをしながら、気持ち良さそうに歩道を歩いている。空は少し曇り始め、遠くの太陽の日差しが雲間から地上へヒカリを落している。あこが急に立ち止まったので、空を見ながら歩いていた僕は、あこの背中にぶつかるかたちになった。

 「ご、ごめん。……ここは、お墓?」

 「そうお墓。会わせたい人がいるの」

 「……」

 墓地には違いないが、灰色の空の下、異国の墓地を思わせる墓標のたたずまいは、別の世界にいるような錯覚に捕らわれた。あこは、通いなれている場所らしく、相変わらず鼻歌を歌いながら、ひょいひょいと、お墓の中を進む。

 「ここよ、由宇。わかっていたでしょ?」

 「……わからないよ」

 あこと僕は、平たくて冷たそうな石で出来た墓標の前に立っていた。墓標には、『更科徹ここに眠る』とある。

 「更科は、あたしのすべてをわかる人だったの。この人の身体が蝕まれているのを知っても、あたしは全然構わなかった」

 あこは、コートのポケットに手を突っ込んだまま呟くように、

 「由宇、あの子に会いたい?」

 「まぁ。でも昔の話だし、いまさら会っても……」

 「それじゃ、会ってみる?」

 全身の毛穴が総毛立ち冷たい汗が噴き出した。

 「……」

 「会いたいのか、会いたくないのかはっきりしなさい」

 「……」

 「不甲斐ない。男らしくないな」

 「……会いたい。流音に会いたいよ」

 僕の返事に、いまいち不満そうなあこだったが、舌うちすると僕の手を引っ張って、どんどん歩きだした。僕は、ついていくのに必死だった。

 「あの子のいまの姿を見て、あなたがどう思うか、興味深々だわ」

 「どういう事?」

 「いいから」

 僕は、黙ってあこの後ろをついて行った。



~エピローグ~

 そこには、黒いジャケットを羽織ったまだ若い娘が立っていた。誰かを待っているように見える。灰色のレンガで舗装された道には、人の影もなく、娘は白い息を吐きながら、時折冷たい手を温めようと口に手を持っていき、吐息で温める。その小柄な姿は、はかなげで、しかし目線は宙をさまよっている。通りかかった下品な酒飲みのオヤジが不思議そうに娘を見ると、ベッと娘の足元にツバを吐いた。

 「……」

 茫然とその姿を見入る僕に、あこは言った。

 「彼女があそこで誰を待ち続けているのか、あなたにはわかるわね?」

 僕はあこの肩を押しのけると、娘の尻を触り始めた男の頭を掴んだ。

 「ワッ! 何しやがる!」

 男は殴りかかって来た。顔面に拳を受けた僕の顔から、鼻汁と血の混じったものが鼻から垂れた。僕は反撃した。男に足をすくわれ、僕と男はひっくり返ったが、瞬時に起き上がり、僕は男の胸倉を掴み殴り続けた。

 「くそっ! くそっ!」

 通りかかった警官に背後から掴まれ、地面に抑え込まれた。

 「離せ! くそーッ!」

 僕は顔を地面に押し付けられ、手錠をかけられた。通報を受けたのかパトカーと救急車のサイレンも鳴り響いていた。あこの姿を探したけど、彼女の姿はどこにもなかった。

 警官の無線の声とパトカーの回転灯の明滅が妙に生々しかった。

 更科流音の精神は病んでいた。それは家を振りかえることをしなかった父親への思いと死別により発症したものであると、母親に聞かされた。流音が僕に父親の姿を求めていると知った時、僕は受け入れることが出来なかった。聞けば、父と子とはいえただならぬ関係だったことも、それにより複雑な家庭環境に育った流音の発病は必然だったかも知れない。それゆえに更科の死は僕にはありがたかった。その思いも病的であると医師は判断している。



―それから数年後─

 良く晴れた朝、窓辺で牛乳パックに口をつけて飲んでいると、マフラーを直しながら女子高生が白い息を吐いて、歩道を歩いて行く。

 「どうしたの? 由宇クン。朝ごはん出来たよ」

 「うん」

 ほかほかのご飯の上にらっきょうがのっけてあって、箸で摘まんでクチの中に放り込むと、甘酸っぱい味が広がった。桜の花は蕾みのままで、花咲く道を僕は歩む。6月になる頃、花は咲き乱れる。

ーおわりー

 

6月の金曜日



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